act.15 ――――――――――――――――――――――――― 「これで…全部終わったんだな」 金色の雲に包まれた空を見上げながらスノウはぼんやり呟いた。 流れてゆく景色は近いようで遠く、静かに通り過ぎてゆく。 先ほど今回の仕事についての報告を終えた。 上司の反応は相変わらずあっさりだったが、 ノラさんは温かい笑顔と共にありがとうと言ってくれた。 今は少しの休息期間となっているけれど、 身体を休めたらすぐに次の仕事に取り掛からなければいけない。 だが当のスノウは上の空だった。 何をするにも集中でないままで、労いの言葉と共に大好物のミルクソーダをもらっても反応は薄かった。 溜息ばかりついて物想いに耽る彼を同僚のレブロとガドーが遠くから見守る。 「何かさ…スノウおかしくない?」 「だな」 「戻って来てからどこか抜けてるみたい」 「ああ。活気がねぇな、活気が」 「もしかして地上にいすぎて頭のネジ飛んじゃったとか」 「確かに今回は向こうに長居してたみてぇだけど、 あいつのネジがぶっ飛んでんのは最初からだろ」 「……おいおい、お前ら。全部聞こえてるぞ」 心配しているのか、からかっているのか。 わざと聞こえるように話しているしか思えない会話に、スノウは眉間に皺を寄せた。 確かに自分の調子がおかしいという自覚は多少なりともある。 心がどこかに置いてけぼりにされた様な空虚な気持ちに満たされていることも。 しかし、スッキリしない気持ちをどうにかして取り除こうと思っても、 どうしたらいいかわからないままなのだ。 あの日――彼の唇に触れた感触が忘れられないまま。 「あっちに何か忘れ物してきたんじゃないの?」 「…だよなぁ。下の様子ばっかり気にしてるしな」 「まさか…記憶消すの忘れたとか?」 何度か仕事をこなしてきてもミスが多かったスノウの背を、 嫌な予感が過る二人が同じタイミングで見つめる。 冷や汗が垂れかかった途端スノウにじろりと睨み返されてしまったのだが。 「失敗はしてねぇよ。やることはちゃんとやってきたさ」 とは言ったものの、未だにその声色は落ち着きがなかった。 何度も溜息を零す彼の姿を見ながらレブロは苦笑する。 「ま、あと幾日もすれば元に戻ると思うんだけどね。 悩みごとがあるなら相談に乗るし」 元気を出しな、と肩を叩いてミルクソーダを差し出してくれる。 そんな同僚の笑顔にスノウは勇気づけられていた。 だがその一方で心に響く温かい声。 「――スノウ」 自分を呼ぶ澄んだ声。 記憶をなくしたはずなのに、 今でも地上から呼びかけられているような気がするのだ。 笑いながら、怒りながら、泣きながら。 色々な表情の中で俺を呼んでくれた声が胸を焦がす。 この想いは一時の気の迷いかもしれない。 けれどあの日夢の中で告げられたノラの声がどうしても忘れられなかった。 お願いだから、後悔はしないでね――と。 「…なぁ。ガドー、レブロ」 心は最初から決まっていたのかもしれない。 くるりと振り返ってスノウは二人の前に立った。 仲間になら躊躇わずに言える気がしたのだ。 「ん? どうしたよ」 「俺さ…一度、生まれ変わってみたいんだ」 その言葉を聞いて二人は目を瞬かせた。 この世界で生まれ変わることはすなわち、天使の役職をゼロに戻すことだ。 本当ならば天使の仕事を数えきれないほど続けたベテランの人がまれに口にする言葉である。 それゆえ、まだ新入りのスノウがこの決断を下すのにはそれなりの理由が必要となる。 天使の仕事を辞めて天界の他の仕事に就く事も出来なくはない。 それとも人間となって地上に降り立つつもりなのか。 「スノウ…あんたいきなり何言って――」 「今はここにいちゃいけない気がするんだ」 この前終えたばかりの仕事がトラウマになったのだろうか。 未だに彼の心境を掴めることが出来ずに動揺する二人の姿が、スノウの揺るぎない眼差しに映る。 「どういうことだよ、そりゃ」 「俺の居場所があるのに、そこにいなかったら哀しむ奴がいるんだ」 「……」 そうくしゃりと笑顔を零され、二人は唇を動かせないままだった。 決意の理由は簡単なものだった。 それが今のスノウの全てだと諭されたのだ。 何も言わず彼の想いを心に刻むしかできない。 わからなかった気持ちがひしひしと伝わってきて、 ようやくレブロは一歩前に歩み出す。 僅かに目を細め、穏やかな笑顔で彼女は笑った。 「あたしの言うとおり、忘れ物してきたみたいね」 「…だな」 スノウが共に笑いかけたその刹那だった。 地上から届く声が響く。 「――ノウ…スノウ…どこにいるの?」 * * * 「哀しい顔して泣いてるところにヒーロー参上、ってな」 夕暮れの公園はあの日、ふたりが出会った場所だ。 「どうして…」 夢を見ているのかどうかわからない状況にホープは声を震わせた。 目の前には名を呼んだヒトがいる。 スノウは頬をぽりぽり掻きながら照れ臭そうに笑った。 「なんつーかさ。大切な奴が…… 愛してる奴が地上にいるって言ったら…追い出されたっていうか…」 「ぇ……」 「翼を、置いて来た」 「…馬鹿だ…っ」 言葉とは裏腹に思わずその胸に飛び込んでいた。 衝突するように勢いよく飛び込んだにもかかわらず、 大きな腕がしっかりと身体を受け止めてくれる。 彼は幻じゃなかった。 その背中に翼がなくとも逞しい身体はあの時と変わらない、スノウのままだった。 「馬鹿はねーだろ、馬鹿は」 自分の為にあんなに綺麗な翼を置いてくるなんて、馬鹿以外の何ものでもない。 こんな僕の為に、翼を失くすなんて。 哀しいはずなのに嬉しくて、矛盾した想いが心を締め付ける。 ホープはふるふると首を振りながらその胸に顔を埋めた。 何を言えばいいのかわからなくてただひたすらその鼓動を感じる。 醒めてしまう夢を見ているのかもしれない。 もしかして、今すぐにでも消えてしまうのかもしれない。 だから彼の身体を離さないように力強く背中を抱く。 必死にしがみつくホープの仕草に苦笑しながらもスノウは髪を優しく撫でてくれる。 「俺はもうただの人間だよ」 「…本当?」 「ああ。…確かめてみるか?」 耳元で囁かれ、静かに見つめ合う。 こんなに近くに来ても消える事はない存在。 本当に夢じゃないのを確かめたい。 吐息が交わる距離まで近づくと、どちらからともなく唇を重ね合わせた。 柔らかな口付けを幾度か繰り返した後、隙間から舌を忍び込ませる。 「…っ…ん…」 力が抜けて立っていられなくなり、スノウの腕を必死に掴む。 後頭部を大きな手のひらで支えられ、角度を変えながら何度も深く絡ませた。 「…ん、ぁ…ふっ……」 濡れた唇の向こう側で甘い吐息が交わる。 熱くなる身体の制御が効かない。 名残惜しく柔らかな感触が離れていくと、何故か口元が綻んだ。 「うん、ただのスノウだ」 失くしていた記憶がじわじわと蘇ってくる。 出会いの日も、カレーが大好きだと言ってくれたあの夜も、 一緒に寝たときの温もりも、雨の日に迎えに来てくれた嬉しさも、 買い物をして写真を撮ったことも、精一杯愛してくれたことも、 いつだって支えてくれた事を。 「ホープ…良い匂いするな」 ふと、スノウは鼻をくんくんと揺らして髪の辺りに顔を埋める。 思い当たることがありホープもつられて笑う。 「匂いにつられてスノウがやってきたのかと思った」 「匂い?」 「今日の晩御飯」 さっきまで台所で支度していた夕飯の匂い。 その独特の香りがホープの服についていたのかもしれない。 「もしかして…カレーか?」 「うん」 「ホントに作っててくれたのかよ! というか、俺の体は匂いにつられて戻ってきたっつーことか」 「スノウの体はいつだって素直だからね」 「それ、褒めてんのか?」 「褒めてるつもり」 美味しい匂いを嗅ぎつけてくるなんてまるで犬みたいだ。 いいタイミングだったと、くすくすと笑い合う。 「いっぱい作ったから、いっぱい食べてね」 「おう!」 再会の喜びがようやく現実とリンクする。 もう間もなく夜も迫ってくるころだろう。 とりあえず帰路につこうと、密着していた身体が離れようとしたその瞬間に。 ホープの手が彼の腕を引き止める。 「でも、その前に」 「ん…?」 夕焼けのせいなのか、頬を微かに赤らめながらホープは唇を動かした。 腕をきゅっと握り締めながら消え入りそうな声で懇願する。 「もう一度、確かめたい…」 スノウは微かに目を細めた後、紅潮する頬に手を宛てた。 瞼を閉じて再び唇をゆっくりと重ね合わせる。 今はこの温もりだけを感じていたいと、夕暮れの公園に一つになった影が伸びた。 たとえこの幸福が世界でほんの一瞬のものにすぎないとしても。 それでも僕らは、 ただひたすらに 愛を謳い続ける――。 fin... 戻る[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
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