母さんがこの世からいなくなって二週間。 突然、僕の目の前に降りて来たのは―― 「……あ」 背中からふわりと舞い落ちる羽根に包まれた、ひとりの天使だった。 act.1 ――――――――――――――――――――――――― 僕は――夢を見ているのだろうか。 誰もいない夕刻の公園。 ブランコに座りながら夜を待ち続けていると、自分の名を呼ぶ懐かしい声が聞こえる。 今はもう聞く事の出来ない、温かくて優しい声だ。 けれど、振り返ってもそこには誰もいない。 現実の虚しさを突き付けられて視界が涙で歪む。 その時だ。 「…何…?」 目の前に現れたのは、大きな白い翼をもつ天使。 まるで絵本の一場面のような光景の中、ホープは視線を逸らせないままその場に立ち尽くした。 夕焼けに照らされた羽根はきらきらと輝いて、生温い風にふわふわと舞い踊る。 風に乗って傍までやってきた白い羽根。 手を伸ばして掴もうとした瞬間。 「あ…やべっ!」 初めて聞いた、天使の第一声。 その途端、目の前の綺麗な羽根は手に触れる前に、空気に溶け込むように消えてしまった。 思わず顔を上げるとバッチリ視線がぶつかる。 背がとても高いヒトだという印象を受けた。 「……」 「お前、見ちまった?」 振り返った彼の表情は酷く焦っていたように口をパクパクさせている。 何を見てしまったのか。 それはこっちが訊き返したかったけれど、その場の空気でホープはこくりと頷いた。 お互いに状況を飲み込めていない事がわかったのか、 男は途端に作ったような満面の笑みを浮かべた。 無精ひげとの不思議なアンバランスが何故か惹かれる。 ロングコートに黒い手袋、黒いデューラグ。 彼が身にまとっている服は至って普通だったけれど、所々土で汚れていた。 あの翼が消えてしまった今は、決して天使には見えない風貌だ。 呆気にとられるホープをよそに、男は汚れをパンパンと手で叩いてから大きな身体を向けた。 「哀しい顔して泣いてるところにヒーロー参上、ってな」 「ぁ…」 ようやくホープはどのような状況だったかを思い出した。 頬を伝う感触がまだ残っている。 ――そうだ。母さんを思い出して泣いていたなんて、言えない。 涙の理由は言わなければいいにしろ、 この男には泣いている所を見られてしまっただろうか。 照れ隠しするように顔をそむけ、ホープは慌てて目元をごしごしと拭った。 「あんた…誰…?」 視界がはっきりしてから改めて向き合う。 ホープと男の体格差は歴然だった。 まるで親子のような、男女のような――いや、まるで人ではないものと比べているような。 二人の影が伸びて重なる。 吸い込まれそうな黒い影に包まれたが、自然と不安感はない。 見上げるほどの距離まで男はゆっくりと一歩一歩近づいてきた。 どうしたらこんなに大きくなれるんだろう、とホープは思う。 「俺はスノウってんだ」 「スノウ…?」 「そうだ。怪しいもんじゃねぇから安心してくれ」 手を差し出して豪快に笑う。 名乗った途端にこういうことを言う人ほど怪しいものはない。 ホープは差し出された手を無視して一歩下がる。 疑いの眼差しを向けたまま、そっとポケットをまさぐった。 「っておい、こら! ケーサツ呼ぶな!」 いきなり目の前に現れた不審人物。 人物以前に、人かさえわからない生物だ。 先ほど涙を浮かべたままの瞳で見上げた瞬間。 男の背中に翼が生えているのが見えたのは幻だったのだろうか。 今は至って普通の人のように振舞っているが、未だに怪しい事に間違いはない。 「おい、早まるな!」 これ以上関わらないほうが良いと思い、ホープは通信機を取り出した。 スノウと名乗った男は慌てて動きを止めようとするが、ホープは公園内の中を逃げ回る。 男が手を伸ばして掴もうとしても細い身体は華麗に避けていく。 さほど大きくない公園の中では小回りのきくホープが有利に見える。 ぐるぐると駆けっこしながら、必死にホープを落ち着かせようとした。 とにかくこれ以上変な疑いをかけられたくないといわんばかりに、男はあれやこれやと声を掛ける。 「俺は…あ、そうだ。そうだよ!」 指先が通信機のボタンを押しかけたその時。 疲れを見せ始めた男が慌てて声を上げる。 「ノラさんに頼まれたんだ!」 ホープの足がぴたりと止まる。 その名前を他人から聞いたのはもう随分と前のような気がした。 「……母さん…に…?」 一体何を頼まれたと言うんだ、この男は。 ――母さんはもうこの世にいないのに。 頭の中の思考が一気に絡まってしまう。 ホープは通信機を握り締めたまま男に戸惑いの眼差しを向けた。 全力で駆け回っていた疲れからか、スノウは膝に手をついて息を切らしながら答える。 「ノラさんに、お前のこと支えてほしいって…」 死んだはずの母さんから頼まれた、だって? いつ? どこで? 何のために。 母さんはあの日偶然、交通事故に遭ったんだ。 最初からこうなる事を知っていて母さんはこの男に頼んだっていうのか。 偶然の事故を予想していたなんて思えない。 あの日にいなくなるなんてわかっていたことじゃない。 それなら、母さんはいつそんな事をこの男に頼んだ? 疑問ばかりが渦を巻いて支配する。 わけのわからない状態に飲み込まれ、ホープの指がカタカタと震え出した。 「どうしてそんなこと……僕をからかってるの?」 「違う! 俺はお前を――ホープを支えるためにやってきたんだ」 ハッと顔を上げる。 突然、赤の他人に名前も告げず呼ばれたことなんてなかった。 「…僕の名前…どうして…」 このヒトは一体だれなの? 母さんの知り合い?遠い親戚? 男の正体がつかめなくて不安になる。 問いかけたくても訊きたい事が多すぎるのだ。 何から問いかけていいかわからない心境を感じ、スノウはそっと目を細めた。 その表情は、いきなり大胆な告白をし過ぎたかと反省しているようにも見える。 とにかくこれ以上ホープが混乱に陥らないよう、スノウはゆっくりと近づいて身体を屈める。 目線を同じくらいに合わせて、不安を取り除いてやれるように柔らかい声色を紡いだ。 「だから、ノラさんに頼まれたって言ってるだろ。 息子の名前くらい聞いてあるさ」 「……」 冗談で言っているのか本気で言っているのか。 相変わらずコロコロと変わる表情でホープを見つめている。 「というかお前、話に聞いてたより可愛いな…いや、男前にも見えるな」 「何それ…」 自分の顎に手をかけ、何かを考え込むようにいろんな角度からホープの顔を見つめる。 可愛いのか男前なのか、どっちなんだと心の中で突っ込みを入れると自然と笑みがこぼれてしまう。 「おっ。笑った顔はノラさんに似てるな」 それはまさしく昔からよく言われてきたことだった。 母さんを知っているからこそ言える台詞でもある。 どうやら、悪い人ではなさそうだと思う。 根拠はないけれど、この笑顔に嘘はないはずだから。 少なくとも自分に悪い影響は与えないだろう。 ホープは取り出したままの通信機をそっとポケットの中に戻した。 夜を告げるチャイムが鳴り響く。 子供は家に帰りなさいと促すものだ。 一般的にはこの時間に各々家に帰り家族との時間を過ごすものだが、 ホープは家に帰っても一人きりだ。 チャイムが鳴っても、こうして家に帰らない子供を怒る親もいない。 だからホープはいつももう少しだけ遊んで帰路に着くのが当たり前だった。 それが唯一、他の同世代の人たちとは違う楽しみを味わっているような気がして、嬉しかった。 すっかり日が暮れ暗闇に包まれようとしている公園。 鳥たちの声も聞こえなくなった静寂の中で。 「ぎゅるるるるる」 明らかにスノウからその音は聞こえて来た。 それは空腹を訴える合図。 「うっ…」 音が発せられた途端、スノウは慌てて腹を押さえた。 当然のように発信源に視線を向ける。 「スノウ…お腹、空いてるの?」 「まぁな…今日は朝から、何にも食ってないんだ」 「大丈夫?」 「何とか耐えてるところだけどな」 口ではそう言っているものの、反発するように腹の音は大きくなっていく。 朝から何も食べていないのなら、お腹が空き過ぎて倒れてしまうかもしれない。 ましてやこの大きな身体だ。 動くためには相当なエネルギーだって必要になってくるだろう。 ホープは視線を逸らしながらそっと声を掛ける。 「あ、あのさ」 「ん?」 「よかったら…僕の家で食べてく?」 提案を呟くと、スノウの顔がぱぁっと明るくなる。 まるで大型犬が嬉しさのあまり飛びついてくるように思いっきり立ち上がると、 その圧迫感にホープはびくりと肩を震わせた。 「いいのか?」 「うん。家、すぐそこだし。大したものはないけど…」 「そんなことねぇって! ありがとな、ホープ!」 不意にスノウの大きな手のひらがホープの頭を撫でた。 少し不器用だけれど、優しくてくしゃっと髪を撫でてくれる感触。 それがとても母さんと似ている。 忘れかけていた温かさがほんのりとよみがえり、 久々にふたつ並んだ影を追いかけながらホープは帰路に着いた。 next 戻る