act.10 ――――――――――――――――――――――――― いつから一人きりの夜が寂しくなったのだろう。 父さんの顔を見なくなってから? 母さんがいなくなってから? そして、その寂しさがなくなってから随分と長い時間が経ったような気がする。 スノウは僕の為にまだここにいてくれる。 いつまでいてくれるかわからないという危機感が、日に日に襲い始めていたのは確かだった。 別れの日が近づいているのはわかる。 その話を切り出すのはいつになるのだろうか。 別れるための心の準備はいつすればいいのだろう。 そんなことを考えながらもう何度目の夜を迎えたのかわからない。 出来る事ならば、この時間が終わってほしくない。 ずっと時間が止まってくれればいいのに。 僕の頭を占めているのはそんな想いばかりだ。 今夜も僕を眠りに誘ってくれる、心地よい薬のような彼の存在が隣に感じられた。 温かくて優しい彼の香りが鼻をくすぐるだけで、いい夢が見られそうな気さえしてしまう。 不意に頬に伝わる手のひらの感触にびくりと肩が震えた。 柔らかい刺激は心地よく、不思議な夢の空間にいるような感覚を覚える。 スノウに触れられるだけで、苦しいくらいにドキドキするのはなぜだろう。 でも、今はひどく不安になるのはなぜだろう。 僕に触れている時、スノウはどんな顔をしているの? 高鳴る心臓と想いを抑えきれないまま瞼をそっと開ける。 ふわふわとした記憶を手繰り寄せると、スノウの顔が目の前にあった。 「…スノウ?」 触れているのは夢じゃない。 しかも、スノウは吐息が交わるほどの尋常じゃない近さにいた。 目を見開いて呟くとスノウは慌てて頬に触れていた手を離し、顔を背けた。 「どうしたの…?」 「あ、いや…別に…」 顔を逸らしたまま戸惑いながらスノウは身体を起こした。 触れていた温もりが素早く離れていく寂しさと、 ドキドキする心臓は収まらないままで、体が熱くなる。 まだ目の前の状況が把握できずに何度も瞬きを繰り返した。 さっきのスノウは完全に――キスする距離にいた。 頬に触れた手と、至近距離にあった唇。 もしかして、目を覚ました時にはすでにキスされてしまったのだろうか? 戸惑いと期待に押されて、そっと指先で自分の唇に触れてみたけれど、 少しだけ乾いた感触だけが伝わってきた。 かさついた感触を何度か往復させた後、 視線を向けるとスノウはベッドに腰をかけたまま背を向けていた。 普段は頼りがいのある大きな背中のはずなのに、 今はこのまま暗い夜に溶けて消えてしまいそうな予感がして、 慌ててスノウの腰に腕を回し、その背中に顔を埋めた。 「ホープ…?」 背後から襲いかかった衝撃にスノウは驚きの声を上げる。 しかしそんなことはお構いなしに回した腕の力を込めた。 スノウに触れられるのは嫌いじゃない。 むしろ、彼に触れられただけで安心するのを身体が全て知っている。 頭を撫でられたり肩を抱かれたり、 ふざけて指を絡めあった時だって今までになかった幸福が生まれていることを知っている。 精一杯の思いを込めて告げる声は微かに震えていた。 「スノウ…行かないで」 本当はスノウをここに留めていくわけにはいかない。 スノウにだってやるべきことがあって、自分ばかりに構ってはいられないんだ。 母さんの頼み――僕を支えるためにやってきてくれたのならばもう充分スノウは尽くしてくれた。 父さんとも和解することができて、僕は昔のような素敵な時間を過ごす事が出来ていると思う。 だから、さよならと手を振るのは今この時しかないのだ。 いつまでもずるずると引きずるわけにはいかない。 そうわかっているのに、その台詞がどうしても喉を通らなかった。 わかっていても、言葉より先に彼を抱きとめてしまう。 知らない間に涙が溢れてしまう。 僕は卑怯なんだ。 離れたくないと願い、どんな手を使ってスノウを引き止めようかと心の底でずっと考えている。 抱きしめる腕の力を強くすると、ぎしりとベッドが軋む音がした。 心臓の音だけが聞こえて不安になる。 早く声が聞きたいと必死に背中にせがむと、 返事より先に腰に回していた腕がゆっくりと引き剥がされた。 「…ごめんな」 拘束を解いてから、スノウはその場に立ち上がりぎゅっと握りこぶしを作った。 最初からわかっていたはずだ。 泣きついて引き止められるほどスノウは弱い人ではないことを。 けれど手を伸ばさずにはいられなかったのだ。 それが僕の本心だったから。 「僕は…スノウがいなきゃ――」 「ごめん…」 拳を作るスノウの手も微かに震えていた。 謝ることしかしない彼の言葉に胸のもやもやが渦巻く。 ずるい。スノウはずるい。 自分の顔も見ようとしないで、本心を誤魔化しているようにしか思えない。 目を合わせて言葉に出して、初めて思いが伝わると言ったのはスノウじゃないか。 なのに、どうしてそれをしようとしないの? 別れの時なのだとはっきりそう言ってほしいのに。 そうしないときっと僕は諦められない気がするんだ。 「ずっと傍にいてよ、スノウ」 僕はただのわがままな人間かも知れない。 でも、わがままを我慢できるほど僕は強くない。 期待と不安が交る中、彼の言葉を待ち続ける。 「…俺だってお前の傍にいてやりたいさ…でも」 「でも…?」 まだ足りないんだ。 スノウにもっと触れたい。 スノウと一緒に生きたい。 同じ時間を過ごしたい。 それなのに、どうしてそんな辛そうな顔をするの――。 僕だけが一方的に思い続けしまっているからいけないの? 「わかってくれよ、ホープ…」 矛盾した想いを抱える胸にずきりと突き刺さる言葉。 「お前の為だ。俺はここにいちゃいけない…」 「仕事があるから…?」 「ああ…それもある」 他にどんな問題があるのだろう。 一緒に暮らすことが気になるのだとしても、この先どうにかなるはずだ。 スノウが居候している事は、今は二人だけの秘密だけれど、 話せばきっと父さんだってわかってくれる。 なぜならスノウには母さんという強い味方がいるから。 スノウが僕たちを助けてくれたって言えば納得してくれるはずだ。 そう、心の中で想像を駆け巡らせて心を落ち着かせようとする。 「俺は……」 それでもスノウの表情は変わらず渋かった。 ここまで躊躇いを見せる原因は、すでにわかっていたんだ。 スノウが言わなかったから――隠そうとしていたから僕も言わなかっただけなんだ。 彼の中に流れるもの。 その正体を知っていたのに。 「人じゃ、ないんでしょ?」 突然の問いかけにスノウは振り返った。 目を見開いたのは一瞬だけ。 すぐに悲しげな眼差しに戻る。 迷いなく告げた言葉が間違いないのだという無言の承認だった。 「…やっぱり」 スノウが人間じゃないことをずっと黙っていた。 本当は半信半疑だったけれど、今この瞬間に確信へと遂げた。 あの日見た羽根のことについてずっと聞きたかった。 けれど言ってしまえば、スノウがいなくなってしまう気がしたから怖くて言えなかったんだ。 「知ってたよ」 「え…」 「初めて見た時から知ってた。 僕が見たのは間違いじゃなかったんだ」 あの日。 スノウと初めて会った日。 羽根がふわふわと舞い降りてきた、絵本のような一場面。 人が空から降りてくるなんて常識じゃありえない。 あり得ないことを納得できるほど僕は子供じゃない。 それから母さんのことや自分のこと、何もかも知っているような口調。 彼は、人のようだけど人じゃない。 「でもね、そんなの関係ない。僕は…」 キスしようとしていたスノウの気持ちが本当なら、 今ならばきっとこの想いを伝えられる気がする。 視線が交わる瞬間、唇をそっと開く。 「スノウが好きなんだ」 「ホープ…」 彼の瞳は揺れていた。 その中に映っている自分はやけに真っ直ぐな強さを持っていて、 まるで自分じゃないような感覚を覚えてしまう。 スノウは好きって言葉をわかってくれているだろうか。 家族とか友達とか、そういう好きを超えている事を。 触れた時、僕の心臓がどうにかなってしまいそうになることを。 「僕の傍にいてよ…」 返事を待っているだけでそわそわしてしまう。 痺れを切らしたように、立ち尽くすスノウの胸に飛び込んだ。 スノウがいなくなったらきっと母さんがいなくなった時と同じように、 胸の中に穴が開いてしまう。 ぽっかり空いた母さんの部分をスノウは埋めてくれたけれど、 スノウが空けたこの隙間を今度はだれが埋めてくれるの? 「お前には親父さんがいるだろ。だから俺は必要ない」 「父さんは父さん、スノウはスノウだよ」 父さんや友達じゃ駄目なんだ。 スノウじゃないと僕は駄目なんだ。 「…ホープ、お前いつからそんなわがままになった」 困ったように笑いながら、スノウは必死に縋りつく身体を引き剥がす。 自分でも制御できない想いに苦笑を浮かべた。 「僕は昔からわがままだったよ。母さんに聞いてないの…?」 ゆっくりとベッドの上に立ち上がると、スノウと丁度同じくらいの目線になる。 肩に手を掛けて大きな身体を引き寄せる。 スタンドライトの明かりに照らされた顔がぼんやりと浮かび、 スノウの輪郭をそっと指で辿ると、無精髭の感覚が指先をくすぐった。 そのまま頬に手を宛てて僕は何も言わずに唇を寄せる。 「…だめだ、ホープ」 触れようとした直前、スノウの腕が僕を押しのけた。 スノウの力に敵わないで僕は静かにベッドへ転がり落とされた。 どうしてキスを拒むの? さっきキスをしようとしていたのはスノウじゃないか。 どうして――。 もう一度引き寄せようと服を掴んだけれど彼の表情が強張る。 「今日はもう寝ろ」 「……」 「…頼むから…」 眉を寄せて、切実な声で訴えてくる。 無理にキスをしたいわけじゃない。 スノウをこれ以上困らせたくない。 彼の声によって僕は冷静を取り戻していき、 なんてことをしてしまったんだろうと思うと、全身の力が抜けて服を掴んでいた手が力なく落ちた。 「わかった。…ごめん」 そのままベッドの上に全身を預けて、ぐちゃぐちゃになりかけた布団を手繰り寄せた。 肩まで一気にかぶって、わけもわからず悔しくなって唇を噛み締める。 苦しくて哀しくて、自分はなんて不器用なんだと思い知らされる。 好きなのにどうして伝わらないのだろう。 それより何より、想いが暴走してしまった僕をどんな気持ちで見ていたのだろう。 諦めの悪い奴、わからずやだと思っているだろうか――スノウは嫌っていないだろうか。 もし目が覚めて、明日スノウがいなくなっていたらどうしよう。 不安が渦巻いて寝がえりを打つとベッドに腰掛けたままのスノウがいた。 怖くなって彼の服の裾をぎゅっと掴む。 スノウは何も言わなかった。 だからずっと手を離さないでいた。 今日だけはまだ行かないでと願っていると、不意に髪を優しく梳く感触がして、 目を閉じながら彼の感覚を辿り僕は眠りに就いた。 next 戻る