act.11 ――――――――――――――――――――――――― 「…何やってんだ。俺は…」 緩やかに胸を上下させながら眠るホープを横目に、スノウは深いため息をついた。 片手で顔を覆いながら項垂れると、背中に何かどっとのしかかるような気がした。 重苦しい空気から逃れようとしたものの、未だに指先が微かに震えている。 興奮するホープを半ば強引に寝かしつけるに至ったはいいが、 左胸の鼓動はまだドキドキしたままで通常に戻らなかった。 口づける直前になってホープがタイミングよく目を覚ましてしまったのを皮切りに、 まさかキスを迫られるとは思わずに動揺してしまった。 更に追い打ちをかけるように告白され、唇を重ねる事が出来なかった自分への後悔が募る。 そして迫られていたのに何故、拒絶してしまったのだろうかと疑問が生まれてしまう。 唇を重ねることで天使に関する記憶を失わせる。 ホープは自分が空から降りてきた所も目撃しており、確実にその存在を知ってしまっている。 下手にこの世界に天使に関する噂が広まってしまっては、前代未聞の緊急事態になりかねない。 だから一刻も早く彼の記憶を奪い去らなければならないのだ。 しかし何故キスすることが出来なかった? 何故、あの場で躊躇ってしまったのだろう。 むしろホープから迫ってくる好機などなかったはずだ。 あの瞬間に勢いでもキスすれば、それでよかった。 それで全てが上手くいく予定だったのだ。 なのにあの時何故自分から拒んでしまったんだ? 覚悟を決めたはずだ。 それなのに、その覚悟を全て吹き飛ばしてしまうほどにホープの瞳が真っ直ぐ見つめていたのだ。 不意に背中から抱きとめられた温度と腕の強さに、苦しいくらいに心臓が揺らいだ。 ホープの切なる気持ちは痛いほどわかった。 ――俺も同じ気持ちだったから。 あいつの傍に居てやりたい。 ずっと支えてやりたい。 それは仕事など関係なくいつの間にか俺自身の想いになっていた。 あいつの笑顔を守ってやりたい。 いつまでも一緒に笑っていたいと。 けれどそう願えば願うほど、リアルは残酷だ。 空を見上げるたび、夢はあくまで夢でしかいられないのだと知るのだった。 上からの声がかからないとはいえ、いつまでも地上でこうしてはいられない。 ホープは自分の正体を知ってしまった。 明日こそ、本当に別れを切り出すタイミングなのかもしれない。 このまま再び寝込みを襲い、キス一つして別れれば後悔するに違いないだろう。 だから明日の朝までは引き続き仕事をやっていく。 ホープを納得させるのも、彼を支える仕事の一つになるはずだから。 眠るホープと少し距離を置いてスノウもベッドに潜り込む。 顔を見れば我慢が効かないと思い、背中を向けた。 必死に瞼を瞑って夜が明けるのを待つ。 少しでも早く眠りに就きたかった。 けれど考えれば考えるほど頭の中が激しく動いて眠りにつけなかった。 やがて宙に浮く感覚が全身を包んだ。 瞼を開くと、そこは地上と天界の狭間――。 金色の雲がふわふわとたゆたう、穏やかな景色が広がっていた。 背中を見ればしばらく隠していた羽がばさりと揺れる。 久々に翼を使って飛んだような気がする。 バランスが上手く取れないのはここが夢の中だからだろうか。 それとも地上に依存すぎるあまり、飛び方も忘れてしまったかと苦笑を零した。 するとどこからか優しく呼びかける声が響いてくる。 「――さん…スノウさん…」 「…ん?」 雲の合間を抜けて声の方へと飛んでゆく。 そこには彼女――ノラがたたずんでいた。 姿を見つけるなりノラは手を振って微笑みを零した。 目の前に降り立つと彼女は自分を見上げ静かに言葉を紡ぐ。 「いきなり呼び出してごめんなさいね」 「…ノラさん、どうして…」 やはりこれは夢の中の世界なのだ。 天使の力の一つに、人の夢の中を自由自在に操れる能力がある。 主に天界と地上を繋ぐ役目を果たすものとなっており、 スノウの仕事に置いてこの能力は重宝されるものだ。 だが、自分からこの力を発動させた覚えがない――とすれば。 そんな疑問を投げかけるように視線を向けるとノラは肩を軽く上げて笑った。 「ちょっと、あなたのお友達に力を借りちゃったわ」 おそらく同僚のレブロやガドーあたりに話を聞いたのだろう。 彼らとは同じ時期に天使の仕事に就いたのをきっかけに仲が良いが、 またもや変な加勢をしてくれるものだと心の中で笑った。 「すいません。明日には報告に上がろうかと思ったんですけど」 本当ならば先ほど任務を終えて天界に戻ってくるはずだった。 だがその予定が狂ってしまったことは彼女も既に承知の上のようだ。 「ふふっ、焦らなくていいのよ。 それに…あの子があなたに迷惑ばかりかけているんですもの。 ここに居て欲しいだなんて我儘言って…本当にごめんなさいね」 「いえ…そんなことないですよ」 むしろ我儘なのは俺の方だと自嘲気味に笑う。 能力がなくとも、人間の強い想いはここに届く事がある。 恐らくホープの強い想いも天を超え、ノラの胸へと届いているのだろう。 「俺は、あいつを支えてやれてますか?」 自分は彼女の願いを叶えることが出来ているだろうか。 今まで聞く事が出来なかった疑問をそっと投げかけてみる。 「ええ。申し訳ないくらいよ。 正直、ここまで期待していなかったわ…なんて」 「ノラさん…」 くしゃりと意地悪く微笑むノラにつられてスノウの口元も緩む。 さすがは親子、笑う時に細まる目が似ているなと思う。 だがいつまでもこんな冗談を言っていられる状況でもない。 本来の目的はノラの未練を無くすことだ。 「また近いうちに話させてください」 自分はひとりの天使として仕事をこなさなければならない。 だから全てを終えたらまたここに戻ってくると。 その気持ちを裏切らないためにも、ノラに約束を告げる。 「けれど、あなたは――」 「いいんです」 スノウの言葉を聞くなり彼女はそっと眉を顰めて見上げた。 ホープの気持ち、そしてスノウの気持ちを何かしら感じ取っているようだった。 互いに別れたくないと願い、想いは通じ合っているはずなのに、現実はそれを許さない。 そんな悲痛な思いが切々と伝わってきて、スノウは申し訳なさそうに笑みを浮かべた。 「俺はあいつ――ホープから色々な事を教えてもらいました。 一緒に笑ったり泣いたり、飯食ったり…。 言葉を交わして一緒に時間を過ごす事が、どれだけ満たされるか。 俺が知らなかったことを教えてくれた彼には感謝しています」 「……」 「あいつのこと…好きになれて幸せです」 考えることなく想いが喉を通ってゆく。 本当のことを告げているのに、どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。 「心から、幸せです」 充分すぎるくらい満ち足りた時間だった。 だから、これ以上望むことは出来ない。 それが現実なのだから――。 曇りないスノウの言葉を聞くと彼女は胸を撫で下ろした。 引き止める理由はないのだと悟ったのだろう。 「そうね。私がとやかく言う権利はないわ。 あの子には少し可哀想な事になってしまうけれど、あなたにはあなたの仕事があるし…」 ホープの事を考えると心が痛いかもしれない。 だが、最終的には記憶をなくすのだから辛いことなどないはずだ。 天使――スノウの記憶を全て失うのならば哀しむ事もない。 彼の小さな恋心もリセットされるだろう。 「わかってます。それを納得させるのも仕事だと思ってますから」 「…ありがとう。このままあなたの人生を狂わせるわけにはいかないものね」 ノラの言葉が全てだった。 そうだ。 所詮は人と天使――。 これ以上深くかかわる事など出来ないのだ。 背中を向け、その場を立ち去ろうとするとノラが駆け寄った。 「スノウさん。私、嬉しかったわ」 「え…?」 「最初はどうなることかと思ったけれど、 あの子――ホープがスノウさんと一緒に生きている姿を見たら、元気をもらったの」 「ノラさん…」 「お願いだから、後悔はしないでね」 「…はい」 優しい母の顔だった。 肉体を無くしても、息子を想う温かい表情だった。 そしてそれはホープだけではない。 自分にも向けられていた。 「あの子のこと……愛してくれて、ありがとう…」 「…っ…」 後悔などなかった。 彼を好きになれてよかったと、その想いが許される気がした。 目頭が熱くなるのを感じ、それを誤魔化そうと懸命に笑顔を作る。 すると彼女の姿が段々と薄まっていった。 もうここを繋ぐことも限界なのだろう。 「朝が来るわね」 「……」 「あなたの報告楽しみに待っているわ」 力強い声に押されスノウは再び翼を広げた。 金色の雲に飲み込まれるように彼女の姿が消えると、世界は急降下する。 next 戻る