act.14 ――――――――――――――――――――――――― 「今日は夜まで仕事?」 「ああ。少し遅くなるから、ホープは先に寝ていなさい」 「わかった。それじゃあ、行ってきます」 「気を付けて」 元気よく家を飛び出すと、父さんが笑顔で手を振って見送ってくれた。 暖かい日差しが降り注いでくる一日がまた始まる。 母さんがいなくなってからのショックは段々和らいできて、変わらぬ生活を続けている。 あまり関係の良くなかった父さんとの蟠りも溶け、仲直りができた。 勉強も必死にやって成績もそこそこに保っている。 友達と遊ぶことも増えてホープは充実した日々を送っていた。 でも、何か大事なことを忘れているような気がするのだ。 毎日過ごす普通の生活の裏側で不安に駆られ、 このままではいけない気がするのは何故なのだろう。 最近はそんなことを考えながら空を見上げる事が多くなった。 帰宅後、食事の支度をコツコツと始める。 と言っても今日は簡単にできるカレーなのだが。 鍋の中身を煮込ませている間、ホープはリビングのソファーで一息ついていた。 いつもの帰り道。賑やかな商店街。 あたたかい談笑が溢れる公園。 変わりがない光景の中に何かを忘れている気がする。 でも何を忘れているかわからない。 いつの間にか紅茶が冷めてしまっているのにも気づかずに、ホープは静かに考え続ける。 しかしぼやっとする思考回路を覚ますようなスパイシーな香りが鼻を衝いた。 慌ててキッチンに向かい、火を止める。 味見をするといつも通りの我が家のカレーの味だ。 でも、何かが足りない。 焦燥に駆られるような、もどかしい気持ちになってホープは無意識のうちに寝室に向かった。 部屋の隅に置かれた机の引き出しから、宝物ばかりを詰め込んだ小物入れから取り出す。 母さんからもらったブローチや、友達からプレゼントされたお守り、旅行の時に見つけた綺麗な貝殻。 その中に――一枚の羽根。 純白の透き通った羽根の輝きは見つけた当初と変わらない。 あの日、布団の上に落ちていたものだ。 綺麗な鳥の羽根は触っただけで心が穏やかな気持ちになるような気がして、 ホープの宝物として大事に保存しているのだ。 羽根に触れると先ほどまでの焦る気持ちが見る見るうちに鎮まってゆく。 ふと自分の枕元に置いたフォトフレームに視線を向けた。 今まで気にした事もなかったけれど、いつの間にこんなものを置いていたのだろう。 「いつ買ったんだろ…父さんと買い物行った時かな」 けれどフォトフレーム自体よりも何よりもそこに入れられた写真に疑問を抱く。 街の展望台を背景に、ホープは一人で笑顔を浮かべて映っていたのだ。 隣には母さんも父さんもいない。一人で映っている。 「どうして一人で…」 左側には綺麗な夕焼けが映っていたけれど、 そこは誰かがいそうなのに誰もいない絶妙な隙間になっていた。 どうしてこんな写真があるのだろう。 失敗写真を間違えて入れたのか。 何にせよつい最近撮ったばかりのはずなのだが、思い出せない記憶がもやもやと渦巻く。 晴れない気持ちの正体の、奥底にある謎。 それは。 「どうして一人でこんなに笑ってるの?」 自分でも初めて見る、幸せそうな笑顔だった。 「…はっ…はぁっ…」 気がついた時にはホープは家を飛び出し走っていた。 あの羽根を握り締めながら、夕暮れの展望台へ向かうため道を急ぐ。 あそこに何か大切なものを忘れている。 展望台に行けば何かわかるかもしれない。 ただひたすらその一心でホープは夕暮れの街を駆け抜ける。 「あっ!」 不意に風が吹き、握り締めていた羽根が手のひらを抜けてふわりと飛んで行ってしまった。 失うわけにはいかないと、ホープは急ブレーキをかけて羽根が漂う方向へ追いかけてゆく。 風に煽られた羽根がふわふわと空を舞う。 強い風が弱まると、やがてゆっくりと地上に舞い降りてくる。 狙いを定めてホープは両手を伸ばし羽根を手のひらで受け止めるように構えた。 羽根も持ち主に戻ってくるように差し出された手の中心に身を委ねる。 「…よかった…」 無事に元に戻った安堵のため息をつき、ホープは周囲を見渡した。 そこは静まり返った家の近くの公園だった。 夕刻の公園は誰もいない。 無我夢中で羽根を追いかけて走ってきて、ここに入り込んでしまったのだろう。 だがホープはすぐに踵を返す事が出来なかった。 足が重い石を付けたように動かなかったのだ。 身体を金縛りのように引き止める原因。 視線の先に見た事のある羽根がそこにあった。 公園のベンチの上に、ホープが手にしている羽根と同じものが落ちていたのだ。 一体、何が起こっているのだろう。 高鳴る心臓が抑えきれずにホープは吸い寄せられるようにしてベンチの上の羽根を手に取った。 「どうして…」 羽根に触れた途端、訳も分からず溢れたのは――。 「…涙が…」 はらはらと頬に伝う雫が止め処なくこぼれてくる。 心を締め付けるような苦しさの奥に、愛おしさがじんわりと沁みてゆく。 生温い涙がぽとりとひとしずく落ちて羽根にきらりと輝くと、 「―――スノウ」 無意識のうちに名を呟いていた。 その途端どくりと一際強く鼓動が跳ね、 遠い記憶の彼方へと押し込まれたものが走馬灯のように駆け巡る。 震える唇でホープは何度も名を呟いた。 そうだ。 忘れていたのは彼の全て。 あの写真も、記憶の中にも彼がいなかった。 「スノウ……スノウ…どこにいるの?」 訳も分からず空を見上げ名を呼ぶ。 どうして今まで忘れていたのだろう。 こんな大切な事を――。 そんな悔しさとやるせなさがホープの心をキリキリと締めつける。 今すぐに逢いたい。 二枚の羽根を胸に握り締めながら懇願する。 届くはずのない願いを空へ託し続ける。 お願いだからもう一度その姿を、あの笑顔を見せて欲しい。 すると夜の闇のような影がホープを背後から包み込んだ。 「…ったくよ…」 自分以外の声が公園内に響いた瞬間には、握り締めていた羽根が光となって消えていた。 息が止まりそうな邂逅。 夢でない事を祈りながら振り返ると、 遠い記憶の中で見た、懐かしい笑顔がそこにあった。 「泣いてるやつ、放っておけないって言っただろ」 next 戻る