act.3 ――――――――――――――――――――――――― 母さんが交通事故に遭った日――。 授業中に先生に呼び出され、すぐに病院に向かった。 母さんの意識は朦朧としていて、手を握り締めても返ってくる力はほとんどなかった。 緊急手術が行われている部屋の外。 一人で泣きながら祈っていた。 もし、このまま母さんがいなくなってしまったら――。 それを考えただけで身体はがたがたと震え、涙が溢れた。 母さんが何をした? どうしてこんな事故に遭ってしまった? 神様、どうか助けてください。 大切な人を奪わないでください。 不安と希望が渦巻いて、震える両手を握り締めて必死に祈った。 病院側が会社に連絡したと言ったけれど、何時間も経っても父さんは現れなかった。 どうしても都合がつかないらしい。 こんな状況でそんな事を言っている場合じゃないだろ。 頭の中に浮かんだ父さんの顔を殴ってやった。 けれど一発殴ったら虚しくなって、すぐに父さんは消えてしまった。 一番欲しかったのは温もりだったんだ。 それからもひたすら母さんの回復を願った。 一人きりでとても心細かった。 震える身体を抱きしめてくれる人はだれ一人いなかった。 そして、誰も来ないまま待ち続けていた手術室のドアは虚しく開かれた。 母さんの手は冷たいまま戻らなかった。 白くて小さな部屋に寝かされたところでようやく父さんが現れた。 涙はとっくに枯れ果てていた。 その時は父さんが幻のように視界に映っていた。 何故駆けつけてくれなかったという疑問も怒りも、全て哀しみに掻き消されてしまった。 もし父さんが病院に駆けつけて、あの場で一緒に祈ってくれていたのなら。 母さんは助かったんじゃないかって今でも思うことがあるんだ。 「…父さんは、家族より仕事の方が大事なんだ」 思い出して、喉が詰まるような感覚に襲われた。 目頭が熱くなってあの時の光景が脳裏を過る。 「思い出させて悪かった」 大丈夫か、と声を掛けてスノウはホープの頭を撫でた。 やはりこの手のひらの感触はとても安心する。 一人きりで待っていた時、欲しかった温もりはきっとこれなんだ。 「そんならホープはいつも一人で生活してるのか? 料理も、洗濯も、掃除も…」 「うん。まだ慣れないけど、全部やってるよ」 「偉いんだな」 「僕しかやる人がいないから…」 「……」 「でも、ずっと一人ってわけじゃないから大丈夫。 学校行ったら友達もいるし、寂しくはないから」 少しだけ作り笑いする。 寂しくないといえば嘘になるけれど、そればかりじゃない。 そんな複雑な気持ちがそのまま表情に出てしまう。 スノウは何も言わず、ぽんと頭を軽く叩いてくれた。 大きな手のひらに包まれながら紅茶を一口飲み込むと、心がスッと落ち着いてゆく。 「スノウは…」 「ん?」 「家に帰らないの?」 「…あ…ああ」 そう問いかけるとどこか気まずそうに視線を逸らして頬をぽりぽりと掻く。 「スノウ?」 「しばらくは帰れない。 ほらさ、お前の傍に居てくれってノラさんに頼まれたからな」 「またその話?」 出会った瞬間からその話だけが二人を繋いでいた。 嘘を言っているわけではないとわかっていても、まだ完全に疑いが晴れたわけではない。 「お前を支えてやってくれって言われたんだ」 「母さんがスノウに直接頼んだの?」 「そうだ」 「ふーん…」 第一、支える事が傍に居ることとイコールになるわけではないと思う。 しかしスノウにとって支えるとはそういうことなのだろう。 彼がどこに住んでいるのか、何をしている人なのか。 まだわからないことだらけだが。 「僕の傍に居るってことは…居候?」 「そうしてくれりゃあ、助かるんだけどな」 今から家探すのも面倒だし、と乾いた笑いを零しながらちらりと視線を向けられる。 どのような返事をしたらいいんだろう。 居候させるのは別に悪い気がしない。 けれど昨日の今日に出会った人をいきなり住まわせるのは不安だって伴う。 言葉を選ぼうとするその前に、口は勝手に動き始めてしまった。 「父さんもここは寝るために帰ってくるようなものだし、別に問題ないと思う」 「え…マジ?」 「スノウがよかったらだけど」 「いい! 全然いい! 助かるよ、ホープ!」 満面の笑みを浮かべてホープの手を取り、上下にぶんぶんと振る。 絶え間ない喜びの表情に自分まで穏やかな心地になってしまう。 さっき出会ったばかりの人にこんな待遇をしてしまうなんて、 まるで魔法にかけられてしまったような感覚だ。 リビングの棚に飾られている母さんの写真に視線を向けると、変わらない笑顔を浮かべていた。 一日で目まぐるしく世界が変化しようとしている。 その変化を与えてくれたスノウは母さんからの贈り物なの? 心の中で問いかけても、やはり返事はなかった。 寝室に入る頃になっても父親が帰ってくる気配はなかった。 三人分のベッドが並んでいるが、最近はほとんど一つしか使われていない。 今はもう主人を失ったベッドをホープが指さす。 「スノウはそっちのベッド使って」 そう告げるとホープは自分のベッドに寝転がり、布団に潜り込んでスタンドライトを付ける。 真っ暗の部屋で寝るのはまだ慣れない。 瞼を閉じると、もぞもぞと動く気配が感じられる。 「ホープ。一緒に寝ようぜ」 「なっ…! ベッドはそっちにあるだろ!」 被っていた布団を引っぺがして一つのベッドに入り込もうとするスノウを制止する。 しかしその大きな身体に抵抗する事は出来ず、あっという間にホープのベッドは占領されてしまった。 毛布を持ったまま仕方なく、空いたベッドに移動しようとした瞬間、スノウの手ががっちりと腕を掴んだ。 「傍に居てくれって言われたからな」 「寝る時くらい離れてても――」 「それじゃダメなんだよ」 ぐっと引っ張られ狭いベッドにダイブする。 二人が寝転がるには少々窮屈のようだ。 片足だってベッドからはみ出してしまっている。 「狭い…」 そう呟くと身体を抱きしめられてしまう。 「あったかくていいじゃねぇか」 そういう問題じゃない、と反撃しようとしても身動きが取れなくて抵抗の仕様もない。 そこまで頼みを守り通さなくてもいいのに。 スノウは妙なところで真面目だ。 「もう…好きにすればいいよ」 これ以上文句を言ってもどうしようもないと諦めの溜息を零す。 目を瞑ると、おやすみと耳元で囁かれて背中にまで腕が回される。 包み込まれる感覚はひどく懐かしくて、その日はいつもより早く夢の世界へ誘われた。 next 戻る