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act.5 ――――――――――――――――――――――――― 父さんは相変わらず仕事三昧。 家に戻ってくることもあったけれど、夜遅く帰ってきて、朝早く出かけてしまう。 朝方に顔を合わせることもあるが、普段から変わらない様子を見ていれば、 どうやらスノウがいる事を知らないようだ。 わざわざスノウの居候を報告して変な誤解を生むより、このまま黙っていた方が良い。 スノウも変なことをしているわけではないし、父さんが彼に気付いたらその時はその時だ。 きっと僕に出会った時のように、何だかんだ上手に弁明してくれるだろうと心のどこかで思っていた。 居候生活が始まってから、スノウは毎日一緒に居てくれた。 さすがに学校まで同行するわけにはいかないから、スノウは家で留守番をしている。 最初は学校も一緒に行くと言っていたのだけれど、そこはどうにかして納得させた。 よく食べるし、寝る時は一緒のベッドが良いと潜り込んでくるし、スノウは変わらないままだ。 けれどスノウの存在が自分の中で確実に大きなものとなっていた。 家に帰っても寂しくない生活。 他愛ない会話が溢れる家の温かさを改めて幸せだと思う。 それに、学校が終わるのがこんなに待ち遠しいなんて思ったのも久しぶりだった。 スノウの笑顔が元気を与えてくれる。 彼がいるだけで笑っていられる自分がいた。 でもスノウが傍に居るのは母さんの頼みだからだ。 それならスノウはいつまでここにいるの? 僕の傍に居てくれるの? そんな疑問が小さく浮かぶ。 「あーあ、雨降ってきちゃったな」 同級生の声につられて窓を見る。 登校する時には綺麗な晴天だったはずなのに。 昼ごろから暗くなり始めた空がようやく痺れを切らせたのか、 大粒の雨がぽつぽつと降り注ぎ始めていた。 「ホープ、また明日な!」 「うん、また」 終業のチャイムが鳴ると同時に、勢いよく教室を飛び出す友達に手を振る。 窓の外を見ると木々の緑がゆらゆらと風に揺られていた。 どうやら風も強くなり始めているらしい。 これ以上悪天候になる前にさっさと帰ってしまおう。 ホープも素早く支度を整え、人ごみの流れに乗るように教室を後にした。 「あ……」 下駄箱で動きが停止する。 鞄の中を探っていても欲しい感覚が見つからない。 中身を全て取り出して、ようやく傘がない事に気付いた。 深い溜息をついても都合よく傘が現れてくれることはない。 こうなったら雨が落ち着くまで少し待機しているしかないだろう。 玄関口の柱に体重を預け、 次々と散ってゆく色とりどりの傘の花たちを見送っていった。 「……止まないな…」 時計の針はゆっくりと確実に動いてゆく。 どれくらいの生徒たちを見送ったのかわからない。 雨も一向に止まる気配はない。 もう少しだけ待ってみるべきなのだろうか。 けれどもし雨がもっと強くなってしまったらどうしようもなくなってしまう。 それならば、待っているだけ時間の無駄か。 「…行こう」 ホープは鞄を胸のあたりに抱え込み、雨の中をいきなり駆け出してゆく。 走って帰れば最小限の被害で済む。 いつものように家でスノウが待っていてくれるはずだ。 そう言い聞かせてホープは水溜りを何度か踏みつけていきながら、 雨の中を駆けていった。 激しく叩きつける雨は次第に痛く感じ始める。 さらには服が水分を吸って重くなってゆく。 けれどここで雨宿り休憩するよりも、早い所帰宅した方がいいだろう。 暗がりの空の下、ただひたすら温かい家の優しさを思い出しながら背を屈めて走り抜ける。 その時だ。 「――プ……ホープ!」 「え…?」 嵐のような豪雨の中を掻き分けるように声が聞こえる。 少し速度を緩めて見上げると、傘を手にしたスノウがそこに立っていた。 「もうちょい我慢してりゃあよかったんだけどな」 「…スノウ」 ぽつりと呟いた名は呆気なく雨音に飲み込まれてしまった。 彼は苦笑しながら手にしていた水色の傘を広げ、ホープの真上に翳す。 「お前、傘忘れてったろ」 「どうして…」 「どうしてって…そりゃ、こっちが聞きたいぜ」 髪から伝い落ちる雨粒が肌を滑る。 まるで涙のように頬を伝っていくその雫をスノウの温かい指が拭った。 「俺が迎えに行くまで学校で待ってりゃよかったのに、わざわざ強行突破しなくてもいいだろ」 「……」 「…あーあ、こんなに濡れちまって。風邪引いたらどうすんだよ」 まさか迎えに来てくれると思わなくて、どう反応したらいいかわからなかった。 スノウに心配かけてしまった心苦しさと、 駆けつけてくれた嬉しさの狭間で心がとくりと疼く。 「そうか! 早く家に帰りたくて我慢できなかったんだな」 「ち、違うっ…!」 冗談染みた彼の言葉に頬が熱くなる。 思わず差し出された傘の柄をガッと掴んでホープは歩き始めた。 全身の血液が駆け巡るようにドキドキしている。 雨で冷えていたはずの身体はすっかり火照っていた。 「そんな照れなくてもいいのによ」 「違うってば…!」 顔を見ないで声を上げる。 だって――図星とは言えないから。 スノウに会いたくて、いつものように笑いあって楽しい時間を過ごしたくて、 早く家に帰りたかったなんて意地でも言えない。 今、面と向かってしまったらきっとこの身体の火照りは隠せないだろうから、 見られないように先陣を切って歩く。 後ろでスノウがニヤニヤと笑みを浮かべていたことに気付かないまま――。 雨が激しく降り注ぐ中、ようやく帰宅した。 風呂場のバスタオルを引っ張り出してきてわしゃわしゃと頭を拭かれる。 小さいころも雨の中を走って帰ってきたら母さんに見つかって怒られたっけ。 それですぐに風呂場に連れ込まれて、熱いシャワー浴びせられていた。 本当にスノウはやることなすこと母さんに似ている。 「早く服脱いで、シャワー浴びてこい」 「う、うん」 背中をぽん、と押されて促されるままに風呂場へ向かう。 とぼとぼとした歩みでふと彼の方へ振り返った。 「スノウ」 「ん?」 「…ありがとう」 「いきなりどうしたよ」 「スノウがいてくれてよかったなって」 母さんの頼みだと知っていても、傍に居てくれることが嬉しかった。 家族のように接してくれるスノウが嬉しかった。 だから、いつまでもこうしていたいっていう願いも、 伝えたくなってしまいそうになる。 視線を向けるとスノウは驚いたように目を瞬かせていた。 呆気にとられた表情に中てられて次第に恥ずかしさを帯びる。 「…シ、シャワー浴びてくるっ」 照れ臭そうに笑って思わず駆け足で風呂場に飛び込んだ。 びしょ濡れになった服を脱ぎ捨てると、懐かしい記憶が雨の匂いに乗ってふわりと蘇った。 「ふー…」 さっぱりした身体をぐっと伸ばす。 もうそろそろ夕食の準備を始めようと台所へ向かった。 スノウはリビングで雑誌を読んで寛いでいるようだ。 冷蔵庫を覗く。 特に目ぼしいものが見つからないが、この雨で買い物に行くのも億劫だ。 あるだけの材料で野菜炒めでも作ろうかと手に取り、流しで野菜を洗いながらぼんやりと考える。 スノウは家族のような存在でそうじゃない。 兄弟とも違う。 だけど友達とも違う。 分かり合っているようで、お互いまだ溝があるような気がする。 まだ知らない事ばかりだし、自分だって全てを話したわけじゃない。 父さんのことも、あれ以来口にしていない。 否、そもそもスノウに話す必要はないはずだ。 スノウは家族に関係ないのだから。 ただ、彼は僕と一緒に居てくれるだけ。 スノウがこうして傍に居てくれるのは、母さんの頼みだからだ。 しかし頼みだからと言って、普通はここまで尽くしてくれるものなのだろうか。 一緒に生活するようになったけれど、スノウの素性はほとんどわかっていない。 けれども、正直そんなことはどうでもよかった。 今は傍に居てくれるだけで毎日が楽しいし充実している。 洗い終えた野菜をまな板にのせて刻んでゆく。 ザクザクと軽快なリズムが聞こえ始めた。 でも、いつまでこうしていられるのだろう。 母さんの頼みは、いつまで続いてくれるのだろう。 ずっとずっと僕の支えになってくれる? そんなことあるわけない。 スノウは先日初めて会ったばかりの人だ。 いつまでも傍に居てやるなんて都合の良い事、ないはずだ。 僕を支えるためにやってきたのならば、意気消沈していた僕がしっかりすればいい。 母さんが安心できるような状態になればいい。 そうしたらスノウだって喜んでくれるはずだ。 もう大丈夫だな、と笑って家に帰ってしまうのかもしれない。 でも僕は―― 「痛っ…!」 ハッとした時には遅かった。 まな板の上に赤い跡が点々と飛び散っている。 包丁の刃が人差し指に触れて皮膚を切っていたのだ。 「ホープ! どうした、大丈夫か?」 声を聞いたスノウが慌てて台所まで駆け寄る。 「ん、大丈夫。軽く切っただけだから」 「危ねぇな。何か考え事してたのか?」 「ちょっとね…」 苦笑を零しながら水道の水に浸す。 針を刺すような痛みの中心から血がじわりと滲み出してくる。 次第にどくどくと血を巡る感覚が伝わってきて、見た目より深く傷つけたのだと思った。 「まだ血が出てるじゃねぇか」 「平気だよ。これくらいすぐ止まるって……っ」 いきなりスノウに力強く手首を握られる。 宝石のような赤い玉がぷっくりと出来ていた。 ジンジンと傷口が疼く。 それだけではない。 スノウが触れている手首が熱い。 振り解けばいいのに、それが出来ない。 じっと傷口を覗き込む彼を見つめると、 血が滲んだその人差し指をスノウはそのまま口に含んだ。 「スノウ! …な、何して…!」 突然訪れた指先を吸われる感覚にドキリとする。 傷口に触れるスノウの舌が、とても熱い。 「スノウっ…」 心の奥からぞくぞくと湧き上がる不思議な感覚。 怖い――ううん、そうじゃない。 ただ心臓がきゅうっと締め付けられるような激しい気持ち。 「…っ」 「刃物扱ってる時は気をつけろよ」 ぬるりとした感覚が離れ、若干の痺れが指先に残る。 救急箱持ってくるから待ってろ、と言い残してスノウはその場を立ち去ってしまった。 全身の力が抜けてしまったホープはシンクに体重を預けた。 身体が熱い理由―――思わず左胸に手を当ててみる。 「何で…こんなにドキドキしてるんだ…」 そっと手のひらを握る。 ダメだ。 このままではいけない。 これ以上心配をかけたくないんだ。 心配させて、いつまでもスノウをここに留めるわけにいかない。 スノウだって僕にだけ構っていられないはずだ。 支えがなくてもいいように、頑張らないといけないんだ。 スノウがいる限り、きっと僕は甘えてしまうから。 でも、もしスノウがいなくなってしまうことがあったら。 僕は素直にその事実を受け入れられるだろうか――。 スノウが触れた人差し指の熱。 それは鼓動と共鳴して、しばらくの間収まらなかった。 next 戻る