act.6 ――――――――――――――――――――――――― 帰宅早々、鞄から取り出した一枚のプリント。 何の変哲もない紙きれがひらひらと揺れて、ホープは溜息を零した。 今すぐくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放り投げるべきか。 せめてもの救いでメモ用紙に使うべきか。 例えテーブルの上に置いておいても、きっと父さんは気付かないままだろう。 もし気付いたとしても興味を持ってくれる気はしない。 やはり結果的にゴミ箱行きになるか。 そんなことをぼんやりと考えていると後ろからひょいと覗きこまれる。 「ホープ、どうした?」 「な、何でもないっ」 いつの間に買い物から帰って来ていたのか。 反射的に驚いて、慌ててプリントを折り畳んで鞄に仕舞い込む。 が、プリントは詰め込む前に呆気なくスノウに奪われてしまった。 「何だそれ」 「あっ!」 奪われたプリントを取り戻そうと立ち上がっても、長身のスノウには届かない。 スノウも腕をぐんと天井まで伸ばし、全く寄せ付けない領域までプリントを掲げて目を通した。 「【発表会のお知らせ】…? お前の学校のやつか?」 「…うん。一ヶ月後に発表会があるんだ。学年で劇とか合唱とかやったりする」 プリントに書かれているのは、年に一度行われる学校の発表会のお知らせだ。 発表会では学年、クラスごとに分かれて出し物をする。 全校生徒の前で日頃の成果を披露するものだ。 これが意外と本格的で、何カ月も前から準備や練習を重ねる。 授業だけでは時間が足りないため、放課後に自主的に活動することもある。 どのクラスも力を入れているのは、もちろん発表会の優秀賞を取るためだ。 優秀賞といっても貰えるのは賞状だけだが、 その日までの努力が報われる証として、クラスメイトが一丸となって賞状を目指す。 我が子の大切な成長を目にする事が出来る発表会だからこそ、生徒たちの親の出席率も高い。 「ホープは何に出るんだ?」 「クラス発表は合唱」 「ふーん。…で、親父さんに見に来てほしい訳だ」 「…え…」 「図星だな」 スノウは嬉しそうに口角を上げて笑った。 無表情のつもりでいても、何でもかんでも見通されている。 どう返事をしていいかわからなくて僅かに俯くと、大きな手のひらが頭をそっと撫でた。 「親父さんに言ってみりゃいいじゃねぇか」 「…どうせ仕事だよ」 ふいと視線を逸らして呟く。 スノウはどうしてこうも軽々しく言えてしまうのだろう。 やはり血を分けた肉親ではないから。 第三者だから簡単に言えてしまうのかもしれない。 小さいころから一緒にいたわけではないし、内情をしっかり把握している訳でもない。 ただ父さんとの仲があまり良くないってことだけは何となくわかっているとは思うのだが。 だからこそ、父さんに聞いてみるだけ無駄ってことなのに。 スノウはこんな簡単な事さえわかっていない。 「そんなことわかんねぇだろ。 もしかしたら予定が空いてるかもしれねぇし」 「そんなわけないよ」 ホープの胸の内に得体の知れない苛々が生まれる。 彼はどうして父さんの事ばかり言うのだろう。 僕はスノウが見に来てくれるだけで、それだけでいいのに。 思わずそんな言葉が脳裏を過る。 「お前なぁ、否定的に考え過ぎだって。 親父さんもきっと見に行きたいはずだろ」 ソファーに深く腰掛けると、その隣にスノウが座る。 ただ横に座っているだけなのに、大きな身体にぐっと迫られているような錯覚を覚える。 やがて逃げ道がなくなって、今はひたすらこの場を去りたい一心で声が零れた。 「…スノウだって家族のことに突っ込むなよ」 一緒に暮らすようになって、僕の中でスノウが大切な存在になっていることはわかっている。 けれどスノウは母さんの何を知ってる。 父さんの何を知ってる。 僕の――何を知ってる。 何も分かっていないじゃないか。 そんなこと最初からわかってるはずだった。 スノウが赤の他人だってことは、最初から知っていた事だ。 「僕だってわからないわけじゃない…」 「…ホープ」 「でも、どうしたらいいかわかんなくて…」 優しさがちくちくと心に痛みを与え、行き場のない想いに震える手をぎゅっと握り締めた。 スノウが自分の事を考えて言ってくれていることはわかっている。 だからこそ、自分の不甲斐なさが嫌になってしまうのだ。 唇を噛んでいると、スノウの手がそっと震える拳を包み込んだ。 「話し合わなきゃ何にも始まらねぇだろ」 「スノウだってっ…父さんの事も、僕の事も… 全部わかったように言うなよ!」 思わず彼の手を振りほどいて声を荒げてしまう。 矛先はスノウでも他の誰でもない。 ――僕に向けられた苛立ちだった。 「…ごめん」 ハッと我を取り戻して謝罪の言葉を零す。 しかしスノウは目を合わせようとせず、静かに立ち上がって寝室へと向かってしまった。 その横顔はひどく哀しくて、まるで言葉を必死に飲み込んで抑えているようだった。 引き止める声も上がらず、寝室の扉が閉まる音がやけに耳に響く。 ホープは隣が空いてしまったソファーに倒れ込むように寝転がった。 丸いクッションをぎゅっと抱きしめて顔を埋める。 瞼を閉じると仄かに残るスノウの香りが伝わってきた。 後悔と、不安と、寂しさが支配する。 ――あんなことを誰かに言ったのも初めてだ。 声を荒げて本気の思いをぶつけたのも記憶がない。 母さんがいなくなってから、父さんとの距離はますます広がった。 でも無理に近づく必要もなかった。 この状況が当り前だったから。 でもスノウと同じ時間を過ごして、このままじゃいけないってわかった。 現実から目を逸らして、踏み出そうとしていなかった自分。 ただ単に逃げていただけなんだ。 前に動き出さなきゃならない。 それは十分知っていたつもりなのに、僕は何もしようとしなかった。 「どうして、あんな事…」 スノウは前に進ませようとしてくれている。 ひとりで立ち止まっていた僕を、歩ませようと背中を押してくれているのだけなのに。 スノウの優しさが素直に受け入れられない。 色々悩んでいても不思議とお腹は減るもので、力ない手つきのままホープは夕食を作った。 胃をくすぐるような匂いにつられてスノウも寝室から出てくる。 けれどホープはまともに顔を見られなくて彼から逃げるように席に着いた。 珍しく味気ない夕食が体の中に放り込まれてゆく。 スノウがお気に入りのカレーなのに反応を見るのが怖かった。 自然と視線が俯き加減になったまま無言で食べ続ける。 キラキラした彼の瞳は、今は酷く怖かった。 目を合わせるのも気まずくて、珍しくテレビ番組に集中してみたりしたが、 画面から聞こえる笑い声は遠くてほとんど横流しだった。 夕飯の片づけを終えるとスノウはまた寝室に戻っていってしまった。 あんな事を言ってしまって、スノウに嫌われてしまっただろうか。 今はそれだけが怖くて声が出ない。 もし明日の朝になったら――今すぐにスノウがどこかにいなくなってしまったら。 こんな気持ちのままで生きていく方が辛い。 ホープは意を決したように息を飲んで寝室の扉に手を掛けた。 電気一つ付いていない寝室の中に、細長い光が射す。 彼は背中を向けてベッドに寝転がっていた。 「スノウ…起きてる?」 呼びかけに応えるように布団の擦れる音が聞こえた。 扉を開けたまま、ホープはゆっくりと歩み寄る。 それに引き寄せられるように大きな身体がぐるりと反転した。 眠りには程遠いぱっちりした瞳が飛び込んで、ホープの心が震える。 そうだ。真っ先に言わなくちゃいけない。 「スノウ。さっきは――」 「ごめん」 先を越されて謝罪の言葉が響く。 自分が発したのではなく、それは紛れもなく彼の声。 「ごめんな、ホープ」 「どうしてスノウが謝るんだよ…」 本当にずるい。 何も悪い事をしていないのに、 謝られてしまったら僕が何を言えばいいかわからなくなってしまうじゃないか。 どうしてスノウが謝る必要があるのだろう。 そんな疑問を浮遊させていると、スノウは身体を起こしてベッドをぽんぽんと叩いた。 ここに座れと言わんばかりの仕草にホープは素直に応じる。 静かに腰掛けるとスノウの体温がふっと近くなった。 「僕が謝らなくちゃいけないのに…」 「どうしてだよ」 「悪いのは僕なんだ…僕がスノウに甘えているだけなんだ」 スノウの腕がそっと肩にかかって抱き寄せられる。 それだけで不安も寂しさも全て吹き飛んでしまいそうなくらい、 心臓がドキドキと跳ね上がってしまった。 でも不思議とその空間が心地よくて、あまりにも優しくて視界が歪む。 「スノウの方がずっとわかってて、正しいんだ」 「正しいとか、そういう問題じゃねぇだろ」 「違うんだ」 逃げている自分が確かにここに生きている。 でもスノウは見捨てないで、ちゃんと前を向かせようとしてくれているんだ。 その優しさを知っているから、僕もスノウに全てを預けてしまって甘えている。 ――いつまでも隣に居てほしいと思い始めてしまっている。 「スノウがいなくてもちゃんとしなくちゃいけないと思ってるけど、まだそれができてない」 泣いているのをスノウに知られたくなくて、溢れ出てこようとする涙を必死に堪える。 声が微かに震えて喉がきゅうと縮まってゆく。 「僕は、自分の力で頑張らなくちゃいけない。 それなのに僕は…僕は…」 唇をきゅっと噛む。 全ては僕がしっかりすればいいだけの話だ。 でも、それを言おうとしても声が震えて言葉出てこない。 空気だけが口からふっと吐き出されて消えてゆく。 だからこんなときでも助けを求めてしまう。 頬を伝ったひと雫。 それがわかった時には、スノウの腕の中に包まれていた。 「もういい…」 背中からそっと身体を抱きしめて囁かれる。 喉に突っかかったまま取ることのできない言葉たちを、 スノウの声がゆっくりと溶かしてくれる。 「お前のその言葉だけで、いい」 そう耳元で告げたきりスノウはずっと抱きしめてくれた。 全てを包んでくれる温かさ。 懐かしい――けど、母さんと違う。 これはスノウの温もりだ。 「ホープ、それから…」 「……」 「今日のカレー、やっぱ美味かった」 溶けてしまった言葉はやがて違う言葉となって生まれてくる。 ありがとう、と。 溢れ続けていた涙も治まり、落ち着いた気持ちでベッドに転がり込んだ。 すっかり慣れてしまった、二人で一つのベッド。 今はもうスノウの瞳をじっと見つめられる。 視線が交わると穏やかな気持ちになって思わずくすりと笑みを零した。 「そんなに見るなよ。なんか恥ずかしいだろ」 眼差しを向けられてスノウは照れ臭そうに笑ってから頭を撫でて眠りを誘ってくれた。 この笑顔の為にも、頑張らないといけない。 スノウがこうして笑ってくれるなら、頑張れそうな気がする。 大きな胸にそっと頬を寄せ、瞼を閉じてスノウの息遣いを感じると、 ふっと耳元に言葉が囁きかけられる。 「ホープ」 「何?」 「お前さ…やっぱり親父さんに本音ぶつけてみろよ」 「え…」 うっすらと瞼を開けて見上げる。 ベッド横のスタンドライトの橙色がほんのりと差し込む。 「このままじゃいけないと思うんだ。 お前だけじゃなくて親父さんもさ、一度話し合った方が良い」 「でも父さんが僕の話なんて聞いてくれるか…」 「だからそうやって最初から決めつけるな」 やはりスノウはそれを望んでいる。 それが母さんに頼まれた事だから。 きっと僕の心の支えになってくれるから。 スノウはそう思って、僕の為に言ってくれているのだろう。 嬉しさの半面、それがスノウの本心なのかと不安になる。 もう、こんな生活など飽きてしまったのかな。 早く帰りたいと思っているのかな。 新たに生まれる淡い想いに飲み込まれそうになった矢先。 手を差し伸べて救いあげるように、不意に顎に手を掛けられて上を向かされる。 真剣で優しい眼差しが降り注ぐ。 「思いは思うだけじゃ伝わんねぇんだ。 言葉に出して、相手の目を見て、初めて伝わるんだ」 瞳を見ただけでわかった。 スノウは心からそう願っている。 頼みとか願いとか、そんなことを全部ひっくるめて僕の事を思ってくれている。 だからこそ逃げるのは終わりにしなきゃ。 頬に触れた手のひらが熱い。 橙の明かりが一つ灯された部屋で、 それでもはっきりと目に焼き付く瞳の色。 「ほら、こんな風にな」 「…そうだね」 スノウの言葉には魔法みたいな力がある。 だから僕はただこくりと首を縦に振って、彼の背中に手を回した。 next 戻る