act.8 ――――――――――――――――――――――――― 「最近、どうなんだ」 「え…」 沈黙はそう長く続かなかった。 穏やかな声が朝の空気に溶ける。 「学校や友達とは上手くやってるのか?」 「うん、毎日楽しいよ」 「ホープばかりに家のことをやらせてすまないな」 「しょうがないよ…父さんは仕事が忙しいからさ」 気を遣う声。 むずがゆい気持ちと、晴れない疑いがもやもやと心の中で渦巻いて、 ホープはどう接していいかわからなくなる。 時間を気にしないでこんな風に面と向かって話すのはいつ振りだろう。 まともに顔を見たのは――そうだ、母さんが眠ったあの病室以来だ。 「父さんは、やっぱり僕より仕事の方が大事なんだよね」 「ホープ。私たちが生きるためには、お金が必要なんだよ」 その理屈はわかる。 生きていくためには仕事をして、お金をもらわなくてはいけない。 そうしなければ温かいご飯もベッドも家も何も得られない。 学校だって行くことだって出来ない。 父さんは僕の為、家族の為に頑張っている。 それは昔から知っていたはずなのに――。 いつからか、父さんは遠い人になってしまった。 父さんが見えなくなってしまっていた。 手を伸ばしても、その背を引き止める事が出来なかったんだ。 それが哀しかった。 そしていつの間にか届かない距離が開いてしまって、 追いかける事さえ諦めていた。 けれど――。 「僕は美味しい食べ物も、大きな家もいらない」 きゅっと唇をかみしめる。 「僕が欲しいのは、父さんとの時間だよ」 「ホープ…」 スノウと一緒に居てわかった。 自分が欲しかったのは大切な人との時間、会話。 ありきたりなものが手に入らなかった寂しさを知った。 この世に当り前に存在しているものなんてない。 失って初めて気付くことがある。 大切なものは本当にあっという間になくなってしまうことを。 「母さんがいなくなって…僕、どうすればいいかわからなくなった」 「……」 別れは一瞬で訪れる。 予想もしない瞬間に目の前にあらわれ、奪い去ってゆく。 だから共有できる時間を大切にしていきたい。 それを教えてくれたのは母さんとスノウだった。 「父さんしか、頼れる人がいなかった。でも――」 「私は、逃げていたんだ」 「え…」 微かに震える声に、顔を上げる。 父さんは拳を額に宛てて深く考え込むように俯いていた。 「母さんがいなくなった時も、私は現実から目を背けようと必死だった。 仕事に打ち込んでいれば忘れられると思っていた。お前からも――」 「父さん…」 今まで知らなかった父さんの気持ちが、 乾いた心を潤すようにじわりじわりと沁みていく。 「しかし、それは逃げているだけだった」 失った辛さを忘れたかったのは、ひとりじゃなかった。 「僕もだよ、父さん」 そう言うと父さんはハッと顔を上げ、困ったように笑った。 自分も同じ表情をしているのかもしれない。 「もっとしっかりお前と向き合っていれば、 お互い辛い思いをせずに支え合えたのかもしれないな」 「…うん」 突然、父さんは頭を下げる。 「ホープ、すまなかった」 慌てて肩を支え、顔を上げてと諭す。 謝罪されたくてここにいるんじゃない。 父さんの気持ちを知りたくて、僕の気持ちを伝えたくて、今ここにいるのだ。 「こんな未熟な父親だが、これからも私の大切な息子でいてほしい」 嬉しかった。 母さんの温かさに似ている父さんの声だった。 だから少し目頭が熱くなって――自然と微笑みが零れた。 「もちろんだよ」 「…ありがとう。ホープ」 逃げて、逃げ続けて。 言葉を交わすのが怖かった。 それは自分の中で作り上げていた父さんが崩れてしまうかもしれないと言う恐怖があったからだ。 壊れてしまいそうな現実を避けていることは楽なことだった。 自分から歩み寄る必要がなかったからだ。 けれど、それではいけなかった。 触れてさえいない真実を、自分自身で都合のいいようにすり替えることはただの弱さだった。 本当の姿を受け入れることが大切だったんだ。 どちらからともなく笑み浮かべ、温かな空間が戻る。 父さんは手を伸ばしてテーブルの上に乗っていた一枚の紙を手に取った。 それは例のプリントだった。 「来月の発表会も、出来れば足を運びたい」 「本当?」 「ああ。お前の成長した姿をこの目に焼き付けておきたいんだ」 一歩だけじゃない。 二歩も三歩もぐっと距離が縮まったような気がする。 けれど、どうして急にこんなに人が変わったようになってしまったのだろう。 その真相が知りたくておずおずと問いかけてみる。 「父さん」 「何だ?」 「どうして、僕と話そうと思ったの?」 勇気を出して話しかけたあの日の朝。 父さんの態度はいつもと同じだった。 あの会話がきっかけだったとは考え難い。 となると、スノウが何かしたのかもしれない。 けれど今まで父さんはスノウの存在を知らない素振りを見せていた。 スノウがここに居候している事を父さんも知ったのだろうか。 今までずっと隠していたことを怒られるかもしれない。 ホープの表情が若干強張ると、それとは正反対の柔らかな笑みを父さんは浮かべた。 「笑うかもしれないが――」 ゆっくりと立ち上がり、リビングの棚にいる母さんへ歩み寄る。 「母さんの、夢を見たんだ」 「母さんの?」 シンプルな額に収まる変わらない笑顔を見つめた。 「お前が私と話をしたがっている。 このままじゃいけない。私を安心させて、とな」 「母さんが…」 魔法のような不思議な力。 父さんが嘘をついているようにも思えない。 となれば、夢の話は恐らく真実だ。 母さんが僕と父さんに力を貸してくれたのかもしれない。 「まさか母さんに言われるとは思わなかった。さすがにどきりとしたよ。 だが、今でも私たちを見守っていてくれている」 「そうだね…」 父さんの手の中に収まる母さんに向かい、 心の中でありがとうと告げた。 スノウはそんな二人の様子をそっと寝室から覗いていた。 これでもうホープはしっかり歩いていけるだろう。 そうとなれば、残された仕事はあとひとつ。 任務完了の最終過程をこなすだけだ。 彼の笑顔をじっと見つめた後、スノウはゆっくり寝室の扉を閉めた。 next 戻る