act.9 ――――――――――――――――――――――――― 「さて、と…そろそろ俺もお暇の時間か」 ぼそりと呟きながらベッドに身体を預け、天井を見上げる。 今まで淡々と仕事をこなしてきたが、 本件ばかりは予想以上に時間がかかってしまったか。 しかし依頼内容が特殊だっただけに仕方のないことだろう。 今回はいつもの仕事とは一味違う依頼だった。 けれど地上で暮らし、人と生きることの貴重な体験をすることができたのは大きな経験になるだろう。 それだけではない。 ホープというひとりの人間に出会って、自分の中になかった感情が芽生えたのを感じた。 共に時間を過ごし同じ気持ちを感じ合える幸せ。 わかりあったり、理解したり、支え合ったり。 人は簡単に意思疎通が出来ない不器用な生き物だけれど、 何度も言葉を交わしてゆっくりと和解へ向かう可能性を秘めている。 孤独が当り前だと思っていた概念を覆した時間だったのだ。 新しい事ばかりで毎日が楽しかったのは間違いない。 出来ることならば、もっと地上で生活して色々な事をこの目で見てみたい。 そんな欲望がスノウの心の奥底から湧き上がっていた。 しかし冷静に考えて――今は仕事中だ。 ホープを支えるという依頼も完了する一歩手前だ。 天使の位でもまだまだ下っ端のスノウが独断で無理に引き延ばす事も難しい。 だからこそ今目の前にある選択肢はただ一つ――。 「スノウ…」 「お、どうした。ホープ」 寝室のドアが開く。 寝転がっていた身体を起こし、軽やかな声でホープに声をかけた。 彼は口元を僅かに緩めてスノウの瞳をじっと見つめた。 ベッドに腰掛けるスノウと、立ち上がったホープの視線の高さはほぼ同じだ。 「あのさ…」 「ん?」 「スノウのお蔭で、父さんと和解できたんだ。ありがとう」 今まで心の中に蟠っていたものがなくなった嬉しさが笑顔となって溢れている。 少しだけ力を貸したとはいえ、和解できたのはホープが勇気を出して思いを告げる事が出来たからだ。 「俺は何にもしてねぇって。全部ホープが頑張った事だろ」 「そんなことないよ」 手のひらで頭をくしゃくしゃと撫でてやると、くすぐったそうに身体を捩った。 「これでノラさんも一安心だな」 最初から、辿りつく場所はただ一つ。 仕事が終わればスノウは天界へ戻り、また次の仕事に取り組むのだ。 もうこれ以上ここにいる必要はない。 そんな空気を醸し出すと、ホープも何かを悟ったのか眉を寄せて不安げな表情を浮かべた。 「…スノウはもう…帰るの?」 「…んー、そうだな…」 答えはもう出ているはずなのに、歯切れの悪い言葉を零してみる。 もし「帰らないで」なんて言われたらどうしようか。 そんな淡い期待さえ抱いてしまう。 それだけ彼の事を気にしているという事なのだろうか。 我ながら困ったものだと考えこんでいると、ホープは悲しげに微笑む。 「僕、もうひとりでも平気だよ」 「ホープ…」 「だからスノウは自分の家に帰って大丈夫――」 そうだ、これがホープの気持ちでもある。 否、そうでなければいつまでも仕事を終える事が出来ない。 肩に触れようとしたその矢先、 徐々に小さくなって震える声にスノウはハッとして顔を覗き込んだ。 頬にきらりと光る雫が、目に止まる。 「じゃあ、何で泣いてるんだよ」 「え…」 その言葉を聞いてホープも目を見開いた。 大きな瞳からぼろぼろと止め処なく溢れてくる涙に、ようやく気付いたのだ。 頬を伝ってゆく生温かい涙をスノウの指が拭ってやる。 震えた唇に戸惑いの眼差しを浮かべるホープをそっと抱き寄せた。 「泣いてるやつを放っておけるか」 「…スノウ…」 子供をなだめるように背中をぎゅっと抱いてさすってやる。 ここで離れなければいけないのに、自ら手を差し伸べてしまう。 耳元で囁いた言葉はホープの涙を抑える為ではなく――自分の思いだった。 「もうちょっとだけさ、ここにいてやるから」 お互いにもう知っている。 俺が“家”に帰らなくちゃいけない事も、全て。 頭の中ではわかりきっていることのはずなのに、 見えない力に引き寄せられるように、いつの間にか二人の指が絡まり合っていた。 それから幾日か過ぎた。 もう少しだけここに留まると言ってしまったからには、突然姿を消す事も出来ない。 ホープの親父さんには正体を告げないまま、未だに家に居候させてもらっている。 昼間は町に繰り出して買い物をしてみたり、人間らしいことを楽しんだ。 流れゆく風景は一瞬一瞬の積み重ねだ。 目に止まる景色に同じものはなく、改めて不思議な世界だなと思った。 長い影を踏みながら帰路につく。 こんな風に変わらない生活を送る一方で、 自分の置かれた状況に後ろめたい気持ちも生まれてくる。 だからこそ徐々にホープから距離を置いて行くつもりでいた。 少しずつ離れて、自然にいなくなるような形になればいい。 ホープの親父さんは相変わらず仕事が忙しそうだったが、 家に帰ってくる回数がぼちぼち増えてきていた。 夜には二人の穏やかな笑い声がリビングから聞こえてくる。 食卓を囲む喜びを思い出すホープを見守っているだけで自分の心も温かくなる。 一方で、もうそろそろ別れを告げる日も近いのだと思うと胸がちくりと痛んだ。 夜も更けてベッドに転がり込む。 最後の最後で躊躇っているのは自分だ。 自分が、切り出さなくてはいけないのに。 ホープが哀しむのを言い訳に。 ホープが引き止めることを期待して。 ひたすら待ち続けてしまっている。 時計の音が響いてからしばらくしてホープが布団に潜り込んだ。 寝る時だけはどうしても同じベッドがいいらしい。 最初はあんなに戸惑っていたのに、今となっては当り前の光景だ。 布団が舞うとホープの匂いが漂ってくる。 「最近、寝るの早いね」 「ん? そんなことねぇよ。  …夕飯はもう済んだのか?」 「うん。父さん明日早いから、もう食べ終えた」 「…そうか」 背中を向けていると、どうしても不安になるのか腰のあたりに手が回ってくる。 だからゆっくり寝がえりを打って向き合うように体勢を変える。 優しく頭を撫でると、ホープは満足そうに微笑んで瞼を閉じるのだ。 「そろそろ、限界か…」 小さな寝息を立てる彼の安らかな表情を見て、目を細める。 ここでの暮らしはとても楽しい。 しかしいつまでもだらだらとホープに甘えてばかりはいられない。 今は親父さんに気付かれていないようだけれど、いつかきっと気付かれてしまう。 早い所切り上げるのが最善の選択なのだ。 必死に自分にそう言い聞かせる。 どの任務にもおける最後の仕事。 それは天使に関するデータを消去する事。 即ち、スノウに関する全ての記憶をホープから消さなければならないのだ。 人間界と天界は隣合わせに存在しながらも決して相容れないもの。 天界に関する一切の事を消さなければならない掟がある。 人から記憶を消す方法。 それは――唇を重ね合わせること。 天使の唇を人に重ねると、 人に宿る天界の一切の記憶は吸収されるように奪われ、人から失われるのだ。 「ホープ…」 眠る身体を抱きしめて名を呟く。 声が微かに震えていた。 記憶を消す――。 それはこれまで過ごしてきた二人の思い出が、自分ひとりだけのものになるということだ。 これからずっと抱える想いはひたすら閉じ込めていなければならない。 それがこんなにも辛かったことなんてあっただろうか。 けれど、これはやらなければならない義務だ。 自分は人ではなく――天使なのだから。 「ホープ…ありがとな」 傍に居てやりたい。 守ってやりたい。 一緒に笑いたい。 ずっと、ずっとずっと。 その想いを伝えてしまう前に、去らなくてはいけない。 これ以上、罪を犯してしまう前に。 ホープの柔らかな頬に手を宛てて顔を支えた。 影が徐々に重なる。 寝込みを襲うなんて、卑怯だと笑われるだろうか。 記憶が消えたら――そんなことを言われることはきっとないだろうけれど。 ひとり苦笑を浮かべながらスノウはそっと唇を近づけてゆく。 これで、本当に終わりだ。 next 戻る